2009-01-07
紀行(119)長崎 「大浦天主堂」

写真:階段参道の上に毅然と建つ「大浦天主堂」
長崎はキリシタン受難の地であった・・!、
長崎市の地域は山、坂の街であることは、小生の知識の中である程度は心得ていた。
改めて、長崎市を上部鳥瞰的に観ると町は変形Y字を逆さまにしたようにも見える。Yの字の右側の線は、先端が長崎造船をはじめとする工業地、そして稲佐山斜面に沿って町並みが覗える。Yの字の左側は、先端にグラバー亭のある大浦地区から県、市庁舎の在る市内で最も賑やかな長崎タウン、そしてY字形の下部がJR長崎駅から、浦上川に沿って先ほど訪れた原爆記念碑・平和公園のあるタウンであろう。 無論、Y字の凹みは長崎港である。 長崎の街の周囲は、ほぼ南北に並ぶ山並みに囲まれ、市の形状は全国的に見ても数少ない「すり鉢」状となっている。つまり市の中心部は三方を山に囲まれており、特に、住宅地の多くは山の斜面を利用しているようである。そのため「階段の街」、「坂の街」として有名である。この辺りは広島の「尾道」に共通しているようだ。
さて、次にY字下部の平和公園から、Yの字の左側先端の大浦地区へ向かった。
市営の松ヶ枝という立派な駐車場に車を預ける。それにしても駐車勧誘のおじさん、おばさんがチョッとしつこいくらいである。平和公園でタクシーの運ちゃんが、小生の車のナンバーPを見て先ず驚き(相模・・・)、「市内を観光するには駐車場が無くて大変だよ・・!」と仰っていたが、どうもそうでもないらしい・・?。
例によって、石畳の品のいい坂道をおもむろに上ってゆく、両脇に長崎カステラをはじめよく飾りつけた土産屋さんが並んでいる。そして、その正面に白で配し、ステンドグラスが綺麗な教会が階段の上部に悠然と立っていた。 そう、長崎には有名な天主堂がもう一つあった、長崎湾を見下ろす「大浦天主堂」である。女子学生が入館料・・?を何がしか払って堂内見学をするようである。
カトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物(1952年に修理が完成)で、1945年の原爆投下で破損したが爆心地から比較的離れていたため焼失は免れたという。国宝に指定された唯一の洋風建築でもある。
江戸期、封建制と鎖国とキリシタン禁制とは、幕藩体制の三本柱であった。
幕末と言えるだろう・・、250 年間つづいたキリシタン禁制もどうやら終末が近づいたのである。 それは、1857年(安政4年)、長崎での絵踏が廃止され、翌年の通商条約で外人のための聖堂(キリスト教会)の建立が認められた。 こうして幕末の開国機運が高まる中、1865年(元治2年)大浦天主堂が建立され、異国風の建物に長崎の市民たちは目を見張ったという。
天主堂という名はカトリックの聖堂を中国風に呼んだものであり当時は、俗に「フランス寺」と呼ばれ連日見物人でにぎわったという。 フランス人によって設計され、天草出身の棟梁・小山秀之進という日本人の職人の手によって作られた。 建築当初は三本の塔を持つゴシック風のつくりながら、先ほどの浦上天主堂のレンガ色に対して、こちらは外壁が白色のナマコ壁という特殊なスタイルで、欧風建築でありながら日本建築の技術や材料が巧みに使われているという。
完成当初、先ず、長崎の浦上の一団のキリスト教徒が大浦天主堂にやってきた。 彼らは大浦天主堂がカトリック教会であると判断すると、さらに、浦上や大浦だけでなく長崎地方全域に数万人のキリスト教徒(隠れキリシタン)がいることが判明、この「信徒発見」のニュースは「東洋の奇蹟」と言われたそうである。
天主堂の「天主」とはキリスト教の神の意味であり、大浦天主堂は国宝に指定された唯一の洋風建築でもあった。 人々にフランス寺と呼ばれたこの天主堂は、豊臣秀吉の弾圧以来250年間の禁教の時代を生き延びて奇跡と呼ばれたキリシタンと広島とともに原爆投下を投下された長崎の波乱に富んだ歴史を見つめてきたのである。
秀吉や徳川幕府は、何故強引なまでにキリスト教布教を禁止し、キリシタンを弾圧したか・・?。一つの理由に藩や武士にとっては家門を保つことこそ至上命題であった。正室との間に子が無ければもちろん、若い側室を迎えて一人でも多く子供を作って置くことは当然であり義務であった。徳川家が巨大なハーレム(大奥)を築き上げるのも、武士の本能であり、ある意味必然であった。
キリシタンは一夫一婦制度が基本である。キリスト教宣教師の眼には、日本の一夫多妻制度が「野蛮な畜生制度」にしか映らなかったはずで、実際に外国商人達が大勢の妾を囲っていることを激しく非難しているのである。
秀吉が黒田官兵衛に向かって「おぬしらキリシタンは側室を持たんそうじゃな。わしにはとても耐えられんわ。わっはっは!」と笑うシーンがあるが、武士の存続にも関わる重大問題だったともいえるのである。
キリシタン厳禁は、日本独特の「お家の事情」が絶対的に絡んでいたのである。
序ながら、JR長崎駅の直ぐ東側の西坂公園の一角に「聖ヒリッポ教会」というのがあり、この地は、二十六聖人殉教の地ともいわれる。 遠藤周作の小説「沈黙」の書き出しに、『ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していた宣教師・クリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである』・・と。
司祭や信徒を棄教させようとして数々の拷問が行われたが、「穴吊り」は深い穴の中に人をグルグルに縛って逆さ吊りにする。そのままでは頭に充血してすぐに死んでしまうので耳の後ろに穴を開けてそこから血がポタポタ落ちるようにして苦しみが長引くようにしたという。強い信念を持った司祭や信徒達はこの苦しみに1週間前後も耐えた上、絶命したという。「二十六聖人殉教の地」は、 このキリスト教弾圧の最初の犠牲者達を追悼した場所である。
1597年、豊臣秀吉の命令により6名の外国人宣教師と20名の日本人信徒が耳と鼻を削ぎ落とされ京都・大阪から歩かされ長崎に到着。「西坂の丘」で彼らは十字架にかけられ、槍で突かれて処刑されたところである。教会の側壁には彼ら26人のレリーフが彫刻され、展示されている。
1865年大浦天主堂が建てられた。それを見て250年以上潜伏していた隠れキリシタンがようやく表に出てくることが出来た。こんなに長い迫害に耐えて宗教を守り通した例は世界の奇跡とも言われる。
そして1981年、あのヨハネパウロ2世が、日本でのキリスト教迫害の歴史を聞き、この地を訪れた。これはキリスト教信者の方々にとっては最大の喜びだったらしい。その日、浦上天主堂で「司祭叙階ミサ」が司式された。 これを記念したパウロ2世の胸像が、教会正面に安置されている。
次回は、「グラバー亭(園)」
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