2008-11-11
紀行(32)津 「高虎と伊勢平氏」
.
伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ
ア ヨーイヨイ
尾張・名古屋は ヤンレ 城で持つ
ヤートコセーヨイヤナ アリャリャ
コレワイナー コノナンデモセー・・
・・と伊勢音頭で唄われている。
もっとも伊勢音頭といっても関東節・伊勢音頭、正調・伊勢音頭、古調・伊勢音頭、道中・伊勢音頭と多彩だが、冒頭の唄いだしは、すべからく「伊勢は津で持つ・・・」から始まるという。
世界で一番短い名前の街・「津」は、仁徳天皇(古代大和朝廷期・古事記の頃)の昔は「安濃津」と呼ばれ、日本三津の ひとつとして栄えた名港であった。そのため、市内には至る所に 名所、旧跡があり、当時の面影を色濃く残している。日本三津とは中国から見た三つの重要な港を意味し、中国との貿易港の一つとして機能していたといわれる。 薩摩の坊津(鹿児島県坊津町)、筑前の博多津(福岡県福岡市)、それに伊勢の安濃津(三重県津市)である。
安濃津は明応7年(1498年)の大地震による破壊的被害で集落は15世紀代に一旦廃絶する。
城郭造りの名人・藤堂高虎が伊予今治から加増転封となって、伊賀国・伊勢国の津・伊賀上野城主となったのは関が原合戦後の慶長13年(1608)の事だった。 高虎は先ず織田信包が築いた津城(現、津城址)の大改築を行ない城下町を整備し、同時に津の街並みの整備に取り掛かる。 政治の要としての丸之内や 武家屋敷、町屋、商屋、寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを行い、 現在の津の町の礎をつくった。 津の城下では北に安濃川が流れ、南に岩田川が沿っている、そこから堀川を掘って入船出船とした。藩主殿様もここから御座舟で伊勢湾から外洋へ向かったことだろう・・、今でも船頭町などの町名が残る。又、町はずれを通っていた御伊勢参りの伊勢街道を城下に引き入れ、宿場町としての賑わい発展を図ったという。
現在の津の街並みの整然とした姿は、高虎の都市構想を往時に見ることが出来る。又、大都会にありながら海岸線の優美さは特筆すべきもので、海水浴場や風致施設の臨海公園、大学施設等、古くから開けた文化の香りがする。 これも高虎以来の町造りの理念が現代に生かされているように想像できる。
戦国武将・藤堂高虎は一農民として近江国藤堂村(滋賀県甲良町)に生まれている。はじめ近江の浅井長政に仕え、その後、織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉))に見出され、徳川家康にと三君に仕えている。 関ケ原の戦いにおいては東軍に属し、その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられる。 江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増される。
家康の信頼はとりわけ厚く、外様大名にありながら側近として遇された。 大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、『国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ』と述べたとも言われている。 徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。 家康の死後は日光東照宮の造営にも当たっている。
高虎は、築城技術にも長け、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城などの築城、名古屋城の修築などでも知られる。
中世(平安期、)の頃「津」は、阿濃津と呼ばれていて、この地は伊勢平家発祥の地とも言われる。
平安中期・935年の平将門(坂東平氏)の乱の後、将門を討った平貞盛らが伊勢国に移り住み、伊勢守に任じられるなどして伊勢国に定着した。これが「伊勢平氏」の起こりだと言われ、後の平氏は安濃津氏とも称していた。この系統の子孫に当たる「忠盛」は市内西郊外の津市産品の地に生まれたといわれ、清盛(平家の棟梁)の父でもある。 平清盛は平安末期、平治の乱で源義朝を破り、中央政権で太政大臣にまで登りつめ、平氏一門は隆盛を極めたことは周知である。清盛をして、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、時に『平氏にあらざれば人にあらず』とまでいわしめた。
武家平氏として子孫の活躍で知られるのは平氏政権を作った伊勢平氏であるが、鎌倉期の執権北条氏を輩出した坂東平氏など、一般に平氏といえば桓武平氏の流れをくむ坂東平氏を指すことが多いという。 しばしば「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、源氏の本拠地は摂津、大和、河内など関西であり、東国は平氏系武士の土着地であることから、「関西の源氏、関東の平氏」と言う方が実態に近いといわれる。
又、平氏は早くから東国に移り、地名を苗字としていた一族が多いが、西国で平氏の名をを残したのは伊勢平氏など数少ない。権勢を握った平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶのに対し源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は「源家総体」という意味での「源氏」と呼び、源家という言い方はあまり用いない。
因みに、伊勢平氏が滅亡したのは「壇ノ浦の合戦」であるが、この時、平家の棟梁だった平宗盛は入水したが、息子の平清宗とともに源義経によって助け出され、鎌倉の源頼朝のもとに送られる。鎌倉で頼朝と面会した後、京への送還の途中で近江の国・篠原で、義経のにより斬首された。これによって平家の血筋は完全に消滅し、近江の国が伊勢平氏終焉の地となったのである。
『伊勢音頭』 三重民謡
伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつヨー
尾張名古屋はヨーホイソーリャー
城でーもつヨー
花は桜か、山は富士のー山ヨー
城は尾張のヨーホイソーリャー
名古屋の城ヨー
「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は 城で持つ」という歌詞を聞けば、すぐに「伊勢音頭」が思い浮かぶ。古調、正調とは別に日本全国には「ヤートコセ ヨーイヤナ」という唄ばやしを持つ「○○伊勢音頭」(御当地伊勢音頭)が多く伝承されている。言うまでもなく、五十鈴川のほとりに鎮座する伊勢神宮に詣る人々が全国から集まり、荷物にならないお土産として伊勢発信の「音頭」が全国に広まっていったといわれる。又、伊勢信仰で天照大神を祀った伊勢神宮につかえる「御師(おし)」が、全国を廻り一般庶民に広がったという。
次回から伊勢神宮について、チョッと詳しく・・、
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伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ
ア ヨーイヨイ
尾張・名古屋は ヤンレ 城で持つ
ヤートコセーヨイヤナ アリャリャ
コレワイナー コノナンデモセー・・
・・と伊勢音頭で唄われている。
もっとも伊勢音頭といっても関東節・伊勢音頭、正調・伊勢音頭、古調・伊勢音頭、道中・伊勢音頭と多彩だが、冒頭の唄いだしは、すべからく「伊勢は津で持つ・・・」から始まるという。
世界で一番短い名前の街・「津」は、仁徳天皇(古代大和朝廷期・古事記の頃)の昔は「安濃津」と呼ばれ、日本三津の ひとつとして栄えた名港であった。そのため、市内には至る所に 名所、旧跡があり、当時の面影を色濃く残している。日本三津とは中国から見た三つの重要な港を意味し、中国との貿易港の一つとして機能していたといわれる。 薩摩の坊津(鹿児島県坊津町)、筑前の博多津(福岡県福岡市)、それに伊勢の安濃津(三重県津市)である。
安濃津は明応7年(1498年)の大地震による破壊的被害で集落は15世紀代に一旦廃絶する。
城郭造りの名人・藤堂高虎が伊予今治から加増転封となって、伊賀国・伊勢国の津・伊賀上野城主となったのは関が原合戦後の慶長13年(1608)の事だった。 高虎は先ず織田信包が築いた津城(現、津城址)の大改築を行ない城下町を整備し、同時に津の街並みの整備に取り掛かる。 政治の要としての丸之内や 武家屋敷、町屋、商屋、寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを行い、 現在の津の町の礎をつくった。 津の城下では北に安濃川が流れ、南に岩田川が沿っている、そこから堀川を掘って入船出船とした。藩主殿様もここから御座舟で伊勢湾から外洋へ向かったことだろう・・、今でも船頭町などの町名が残る。又、町はずれを通っていた御伊勢参りの伊勢街道を城下に引き入れ、宿場町としての賑わい発展を図ったという。
現在の津の街並みの整然とした姿は、高虎の都市構想を往時に見ることが出来る。又、大都会にありながら海岸線の優美さは特筆すべきもので、海水浴場や風致施設の臨海公園、大学施設等、古くから開けた文化の香りがする。 これも高虎以来の町造りの理念が現代に生かされているように想像できる。
戦国武将・藤堂高虎は一農民として近江国藤堂村(滋賀県甲良町)に生まれている。はじめ近江の浅井長政に仕え、その後、織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉))に見出され、徳川家康にと三君に仕えている。 関ケ原の戦いにおいては東軍に属し、その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられる。 江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増される。
家康の信頼はとりわけ厚く、外様大名にありながら側近として遇された。 大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、『国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ』と述べたとも言われている。 徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。 家康の死後は日光東照宮の造営にも当たっている。
高虎は、築城技術にも長け、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城などの築城、名古屋城の修築などでも知られる。
中世(平安期、)の頃「津」は、阿濃津と呼ばれていて、この地は伊勢平家発祥の地とも言われる。
平安中期・935年の平将門(坂東平氏)の乱の後、将門を討った平貞盛らが伊勢国に移り住み、伊勢守に任じられるなどして伊勢国に定着した。これが「伊勢平氏」の起こりだと言われ、後の平氏は安濃津氏とも称していた。この系統の子孫に当たる「忠盛」は市内西郊外の津市産品の地に生まれたといわれ、清盛(平家の棟梁)の父でもある。 平清盛は平安末期、平治の乱で源義朝を破り、中央政権で太政大臣にまで登りつめ、平氏一門は隆盛を極めたことは周知である。清盛をして、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、時に『平氏にあらざれば人にあらず』とまでいわしめた。
武家平氏として子孫の活躍で知られるのは平氏政権を作った伊勢平氏であるが、鎌倉期の執権北条氏を輩出した坂東平氏など、一般に平氏といえば桓武平氏の流れをくむ坂東平氏を指すことが多いという。 しばしば「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、源氏の本拠地は摂津、大和、河内など関西であり、東国は平氏系武士の土着地であることから、「関西の源氏、関東の平氏」と言う方が実態に近いといわれる。
又、平氏は早くから東国に移り、地名を苗字としていた一族が多いが、西国で平氏の名をを残したのは伊勢平氏など数少ない。権勢を握った平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶのに対し源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は「源家総体」という意味での「源氏」と呼び、源家という言い方はあまり用いない。
因みに、伊勢平氏が滅亡したのは「壇ノ浦の合戦」であるが、この時、平家の棟梁だった平宗盛は入水したが、息子の平清宗とともに源義経によって助け出され、鎌倉の源頼朝のもとに送られる。鎌倉で頼朝と面会した後、京への送還の途中で近江の国・篠原で、義経のにより斬首された。これによって平家の血筋は完全に消滅し、近江の国が伊勢平氏終焉の地となったのである。
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名古屋の城ヨー
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